教室に入ると薫子がひらひらと手を振っていた。
「良ちゃーん。」
「おっはよー、薫子さん。」
いつもにこにことしていて気持ちがよい。
ここまでこの学園に馴染むことができたのは、伯王の力もさることながら、薫子の存在も大きい。
転校してきた日から、私が困っていると、すぐに手をさしのべてくれた。
だから、彼女が困ったことがあると、絶対に力を貸すと決めている。
「あのね、良ちゃん。今日の放課後はお暇?」
「え…なんにもないけど、どうかしたの?」
それを聞いて薫子はよかった、と顔を和ませた。
「実は、もうすぐバレンタインでしょ?クッキング部にお手伝いにきてほしくって…。」
薫子によると、クッキング部では有志で義理チョコを配るそうだ。
「去年のチョコは不評だったらしくて、部長が今年こそはってリベンジに燃えているの。」
義理チョコでリベンジ…?
相変わらず花園部長の考えていることはよくわからない。
でも、みんなが困っているのは事実だし、手伝えることは手伝いたい。
「わかった!私でできることなら手伝うよ。」
どんっと胸を叩き、まかせて、と答えると、薫子はにこっと微笑んだ。
「あーどんなのにしようかなぁ。」
鼻歌でも口から飛び出してきそうなくらい、アドレナリンが放出されている。
頭の中はチョコレートのレシピで一杯だ。
「ビターなのもいいし、ホワイトチョコもおいしーし、フルーツにチョコトッピングも捨てがたいよねぇ。」
みんなが喜んでくれそうなレシピ。
考えるだけでわくわくした。
昔はささやかに自分たち家族がおいしく食べられるお菓子を作るだけだったのだが、今では「おいしい」と言ってもらいたい人がたくさんいる。
「それにしても、チョコっていい香りだよねぇ。甘くて濃厚で。」
腕の中の紙袋に包まれた大量のチョコレートに鼻を近づけて呟いた。
「そうだな、これだけ大量だと香りもすごいしな。」
「うひゃぁ?!」
突然横合いから響いた低い声に驚き、手をすべらせた。
「あ、やば!!!」
あわてて手を伸ばして拾い上げようとしたが、その前に黒い制服に包まれたしなやかな腕が間一髪で紙袋をささえた。
「悪い、驚かせたか?」
「伯王…。」
チョコレートの紙袋を片手で支え、もう片方で膝についたほこりを払う。
そんなひとつひとつの仕草が妙に艶めかしい。
「あ、ありがとー伯王。」
彼のおかげで無事に割れずにすんだチョコレートの袋をもらおうと、両手を差し出す。
それを軽くかわして、伯王は歩みを促した。
「オレが持つよ。」
「あ、ありがとー。」
こうやって隣に並んで歩くだけで、胸のどきどきが治まらない。
頬に血が集まり、頭も熱くてくらくらしそうだ。
(今までどうして普通でいられたんだろう…。)
こんなにかっこいい人が傍にいて、何も思わずにいられたのは不思議、としか思えない。
微かに触れる肩にも小さな熱が燈る。
「それにしても、このチョコレートどうするんだ?」
袋の中を覗き込んで伯王は言った。
「あ、それはね、バレンタインで使うんだー。」
「え…?」
伯王は「バレンタイン」という言葉にぴくりと反応した。
良はそれに気付かずに言葉を紡ぐ。
「クッキング部で毎年バレンタインにはチョコレートを配るんだって。それで薫子さんに『手伝ってほしい』って頼まれてね。」
伯王の隣を歩くことだけで緊張してしまい、隣の様子を窺う余裕はなかった。
良がまっすぐ歩いていると、突然隣の気配が消える。
「あれ?伯王??」
後ろを振り返ると、伯王が顔をひきつらせて歩みを止めていた。
「どうしたの?」
気分でも悪くなったのかと伯王の傍に駆け寄るが、伯王は良の瞳を見詰めたまま、身じろぎもしない。
「伯王?」
しばらく口をぱくぱくとさせていたが、意を決したように、良の手をとった。
「おまえ、それって誰かにチョコレートをやるってことか?」
それはもちろんそうだろう。
クッキング部有志で作る義理チョコだ。
配らなくて何の意味があるのだろうか。
「うん…、そうだけど…?」
何をそんなに戸惑うことがあるのか分からず、ただ伯王の言葉に同意した。
それを聞くと心なしか伯王の顔が青ざめた。
やはり気分でも悪いのではないだろうか。
いつもと様子の違う伯王に不安になってくる。
「伯王?なんか疲れてる?庵さんか隼人さん呼んでこようか?」
伯王の顔を覗き込むが、彼はただ茫然と突っ立っている。
おかしすぎる。
彼に預けていたチョコレートの紙袋をひったくり、彼らを探し出そうと足をBクラスの棟へと向けた。
「待ってて!庵さんと隼人さん呼んでくる!!!」
駆け出しかけたが、何かが腕をつかみ足は空をきった。
「へ???」
再度後ろを振り返ると、伯王の力強い腕が良の二の腕をしっかりとつかんでいた。
いつものように包み込むような優しい腕ではなく、力が感じられる男の人の腕。
腕の先にある彼の頭は俯いていて、表情から心情を量ることはできない。
ただ、様子がおかしい。
「伯王?どうしたの?」
床に目を向ける彼の視線を捕まえようと、少し膝を折り、彼の目線を捉えた。
揺れた瞳が不安そうにこちらを向いている。
「伯王?」
本当にどうしたのだろう。こんな伯王は見たことがない。
「…悪い…なんでもない。行こう…。」
明らかになんでもない風ではないが、その背に拒絶の意思を感じて、良は黙って彼の後をついていった。
いつの間にか紙袋は伯王の腕の中に戻っていた。
続きます。
バレンタインなんてとっくに終わった~というツッコミはなしです。